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2011年12月03日

携帯から

いつもながらご無沙汰しております。携帯で投稿に挑戦してみます。これじゃ、Twitterかな?
  

Posted by ayami at 19:36Comments(1)

2011年11月06日

あれから一年が過ぎました。

去年の今頃は母の入院で人生最大のピンチでした。
母はいつまでも元気だと思っていた私だったからです。
私の中ではもうあの世に・・・と覚悟しました。

想えばもう87歳ですから当然どこかが悪くなっても仕方がない年齢です。
8か月の入院生活後はすっかり元気を折り戻し「渡邊邸」でのお稽古も普段通りに
しています。どちらかといえばもっとパワーアップしたようにも思えます。
大正生まれは強い!と痛感しました。


さて、「渡邊邸」はそれなりに動いています。
台風の被害を受けた庭も庭師さんにお願いして光悦垣、四つ目垣、しおり戸を新しく
していただきました。青々とした青竹が庭を際立たせています。これからは紅葉で益々
美しくなります。

先月29日「音茶汰カフェ」
3日は「書道展とJAZZライブ」
5日、9日はお茶のお稽古と続きます。


相変わらず気ままにオープンさせていますが、いろいろな出会いがあり
これが今の私には一番のビタミン剤かと思っています。



凹む事が多かった今年もあと一カ月余りです。
私なりにやるしかない!

やれることをゆるやかにゆるやかに・・・・。





  

Posted by ayami at 09:52Comments(0)

2011年06月20日

「渡邊邸物語」 NO14

渡邊には二か所の墓地を持っています。
宅地の北東には大正から昭和にかけて、北西には明治以前の墓地が並んでいます。
墓地に見守られるかのようにお茶室「孤月」から見える場所で小高い場所にあります。


祖父母も父もご先祖様を大切に想い奉り事が中心でした。
お盆には松明(たいまつ)を燃やし何百とあるお墓にお花とお線香を
供えました。どんなに暑くても午前と午後に二回。
墓地の整備などは家の男衆が整えてくれるのでお水、お花は墓地にその時期はいつもありました。仏壇には精進料理が並び私たちもお盆の間はお肉を食べる事はありませんでした。

西のお墓には「大添小添」さんと言われている韓国からのお墓があります。
これらは秀吉の時代に韓国から人質として囚われて来たお姫姉妹と女官たちのお墓です。
先祖からずっとこのお墓を守り続けているのですからもう何百年も前から伝わる墓守です。
お墓の形が日本のと違い丸くて可愛らしいのできっと若くして亡くなったのではと推測されます。お盆になると祖父母も父もこのお墓に来ては「どうぞ西の国にお帰りなさんせ」と言って供養していました。

元々は違う場所にあった「大添小添」を母国の韓国が見える方向に移動させたのは父でした。一段高い場所に作った墓地は町が見渡せて遠く韓国が見えるような場所にあります。


さて、父が亡くなり何かとあった「渡邊邸」がどうにか稼働し始めたものの心に引っかかるのがこの「大添小添」のお墓でした。多分2年は足を踏み入れることもしていなかったのです。「三木町史」にも紹介されている場所だけに問い合わせも役場から耳に入ってきました。

やっと現地に行った時はもう木や草が茂り足を入れることもできない程でした。わずかに見える石段にお花とお線香を供えて帰りました。

そしてその年の冬に業者に頼んで木の伐採をして何十体のお墓が冬の太陽に照らされました。翌日、私はひとりで掃除をするつもりで行ってみました。なんと3人の女性がすでに墓地の掃除をしていたのです。私はまるで夢かと思うくらい驚きました。お掃除をお願いした記憶もなくただ立ちすくんでいました。

一人の方が「こちらの持ち主ですか?」との問いにやっと「ハイ」と答えるのが精いっぱいでした。
彼女たちは「私たちは歴女です」・・・。

私は「はぁー?!でも」

彼女達はずっとこの「大添小添」のお墓を探して何度もこの辺りまで来ては見つからずやっと場所がわかり生い茂った木や雑草を抜きに気合いを入れて来たらすっかりきれいになってお墓が現れていたのでびっくりしたとの事。そして後始末の掃除をしていたのがわかりました。

この偶然が運んだ出来事はきっと韓国の神様のお陰だと思いました。いえ思うしかありませんでした。お墓は夕日に照らされて本当に輝いていました。


  

Posted by ayami at 12:00Comments(0)

2011年06月03日

「渡邊邸」 ご無沙汰しております。

「音茶汰カフェ」 「ヨガ カフェ@音茶汰」も順調に開催しております。

今月は11日AM11時~12時半まで「ヨガ カフェ」 予約受付中。
午後からは「音茶汰カフェ」になりますのでまた足をお運びいただければ嬉しく思います。



さて、昨日はJAZZシンガー三木智子さんがご自身のHPの写真撮影にカメラマンと来られました。
新緑のもみじやお茶室で楽譜を見る姿をカメラマンがカシャカシャと撮っていました。見るのがとても楽しみです。


お待ちしている間に父が残した写真や手紙の束を出して読みふけっていました。


父は母と私を置いてよく東京へ行っていたので手紙やはがきで様子を知らせていたようです。
誰に会った、こんな事があったと短い文章の中にいつも私へのお土産と健康を案じる内容でした。

40歳を超えての子供だった私をとても大切に想ってくれていたのだと今さらながら感じました。
センスの良かった父が見つけた銀座での子供服や持ち物は今見ても通用するくらい洗練されています。


父は写真撮影も趣味でした。
被写体は茶道具、建築の他にいつも母と私でした。滅多に自分が写る事がありませんでした。
そんな中で京都 官休庵の家元でのお茶会での父の写真を見つけました。

もうこの頃は母ともうまくいっていなかった頃でしたので胸の内は計り知れない物があったはずです。
父は着物姿でどこかしら笑っています。私はそっとアルバムから取り出して「渡邊邸」に来られる皆さんに見える場所に
置きました。


生きていれば100歳はもう超えています。


今の「渡邊邸」 そして今の日本をどんなに思っているか聞いてみたい・・・いえ、それは勇気もいるし怖いけど・・・。


明日は午前中、建築関係と設計士さんの皆さんがボランティアで草抜きをして下さいます。
去年から始まったこのボランティアをありがたく思っています。

いつも困って立ち止まろうとするとどこからか助けてくれるのはご先祖様が守ってくれているのだと信じています。



  

Posted by ayami at 15:02Comments(0)

2011年03月08日

「渡邊邸」今年は・・・・。

3月6日 「つまみ細工」ワークショップを無事に終えました。

桜居せいこさんをお招きして「つまみ」の技巧をお嬢様達が静かにそして華やかに「渡邊邸」に集って
学んでいました。

出来あがった作品を我が子の様に優しく手で包んで持ち帰って行くのをこちらも嬉しくお見送りました。

ブレイクタイムには「まんじゃーれ」の特製デザートを召しあがって頂きました。



さて、13日は「カフェ 音茶汰 IN 渡邊邸」が一日だけオープンします。
お料理好きなゆかりさんのスィーツにお抹茶。


美女4人組で立ち上げた和風カフェです。


これから月に一度のペースでゆるくカフェをしていくつもりです。


お蔵から何十年振りに出て来た「渡邊邸」の器を使っておいしいスィーツをのせて皆様に楽しんで
頂ければとても嬉しいです。


カフェは空間と雰囲気の中で身を置いて居心地を楽しんでいただく場所と思っております。


今月は「ひなまつり」がテーマです。
折り紙の展示もしております。


そして私のお雛様を50年振りに飾りました。


13日 AM11時~PM4時(オーダーストップ)。

www.watanabetei.net  

Posted by ayami at 15:30Comments(0)

2011年02月25日

若かったあの頃・・・そして再会

私に夜遅く携帯なんて滅多にかかって来ないのにあれ!留守番電話だ。


おーーー懐かしい人からだ。

すぐにかけ直すとどうやら飲み会で酔っぱらってる雰囲気。


私が短大時代にハマっていた音楽(バンド)仲間からだった。
あの頃は70年代のフォークが大流行でした。


私も短大で同好会を立ち上げて本業を忘れて活動していました。

幻のフォーク集団「ダイム」の存在は大きくてギターを弾く高校生が集まっていました。
そこでの出会いから始まりました。

当時、「ダイム」はフォークをする若者の登竜門でした。



(卒業生には「山源」の小倉さんがいるのと、丸亀町開発で有名になった古川君がいます)


その仲間がイギリスで長く暮らしていて帰国中なので会いましょうとのお誘いでした。
善は急げ!翌日昼間の「グランドファーザーズ」でお茶をしました。

広告代理店の社長になったI君、家業を継いだH君、そしてイギリスからH君。

地元にいる二人にはたまに会っていたけれどH君とは30年振りの再会です。

ちょっとワクワク感が・・・。

「こんちわーーーおーーーお久しぶりです」


目の焦点がぼやけているのかと思うくらいなかなかあの頃のH君の顔に見えません。
でも喋り方は変わりません。段々と当時の顔と一致してきました。

ずっと海外で仕事をしてこれから先も日本での生活はないと言っていました。

あの頃はアイビールックで高校生のあこがれのバンドだった彼らも56歳。
バンドのメンバーのそれぞれの足跡を聞きながらあっと言う間に時間が過ぎて行きました。


40年前・・・・。
私のバンド活動は短かったけれどどのステージも大きかった。

それのどれもに彼らが目撃者だった事に感動してしまった。


そしてすっかり忘れていたけれど出演したコンサートであのガロとの出会いをH君が熱く語ってくれました。
ガロのメンバーだったマークが持ていたマーティンD45 を控室で弾かせてくれたあの音は今も忘れられないと・・・。
(「学生街の喫茶店」がヒットする少し前の事です。)



高校生だった彼らに大きな影響を与えた事にもびっくりしてしまった。
私達バンドは3歳年上で結構、一緒に行動していたけど全然恋愛対象にならなかったのが不思議。


それくらいバンド活動に没頭していた事になるのかも。



私が今、再び活動してると言っても彼らにとっては私が元のメンバー(みっつのコクリコ)で演奏しないとダメらしい。
それは無理だよーーーーメンバーがまだ生きてるだけでも凄い事だよ・・・って反論してしまった。





H君、ありがとう会ってくれて。
また帰国したら会おうね、きっと。












  

Posted by ayami at 12:46Comments(0)

2011年02月24日

カフェ「音茶汰 In 渡邊邸」

昨年、母の入院で「渡邊邸」の動きもやや少なくなっていました。


でもお茶を楽しみたいと言って下さる集まりからのオーファーも受けながらささやかに続けて来れているのは
「渡邊邸」を愛して下さる皆様のお陰だと感謝しています。


母の復帰はこの春と思っています。
これがあるから命が途絶えなかったのだと思えるから。


母は「渡邊邸」でのお稽古が命の水です。


母が入院中に久々にお料理の得意な友人との再会があった。
40歳代の素敵なミセスです。


元々は音楽仲間(ゴスペル)。
ご主人の転勤で長く広島にいてやっと高松に戻って来ました。


彼女のカフェをやりたい想いと「渡邊邸」の空間をコラボレーションすれば・・・・・。


そして本格的に許可をもらい来月13日にプレオープンします。

営業は月に一回 AM11時~PM4時まで。

マフィンやスコーンとお茶です。


「音茶汰」(おとさた)のネーミングはゴスペルで知り合ってお茶とお喋りが好きな美女4人が決めました。
・・・・そしてオープンは月に一回だけ・・・。


また「渡邊邸」が輝けるようやってみます。



3月6日は「ツマミ細工@渡邊邸」と折り紙ひな祭り展示を開催。
ツマミ細工の参加のお問い合わせはまんじゃーれ(087-864-4025)
まんじゃーれのスイーツ&お抹茶も楽しんで下さい。




コトデンで「白山」駅で降りて歩いて7分。
車だと長尾街道を走って「藤井製麺」倉庫から北。


素敵な出会いを待っています。










  

Posted by ayami at 11:06Comments(0)

2011年02月22日

母の入院

昨年11月5日に緊急入院して4カ月が過ぎようとしています。

あの時に発見が遅れたらもうこの世にいなかったかもしれない。
運命の糸は微妙なタイミングだと思った。


予定変更で自宅にいて何度も母宅に電話しても繋がらずとうとう家に行って叫んでも返事がない・・・。
合鍵を探してドアを開けると部屋で倒れている母を発見。
救急車で運ばれた時は意識がもうろうとしていた。


そこからの一週間は何が何だかわからなかった。

一命を取り留めて今は自分で歩く事もできるようになり暖かい春と共にまたお稽古も再開できそうです。
長いトンネルを抜けて新しい道に出て行くようなそんな心境ではないかと思います。


87歳・・・まだ生きて教える事や伝える事はまだ


たくさんあるはず。


退院したら一人娘の私が母の手と足にならなければなりません。


母のお茶人生・・・お茶しか知らない人。
私の中の母は母ではなくいつも凛としたお茶の先生でしかなかった。
決して弱音を吐かない強い人。

もういいんじゃないの・・・・肩の力を抜いて残された時間を趣味がお茶でいいんじゃないのって。


あの日から毎日欠かさず病院に行くのが私の生活の一部になりました。


退院したらもっと私が大変かもしれないけれど母には私しかいないから・・・・。


闘いはこれからかもしれない。
  

Posted by ayami at 10:14Comments(0)

2010年10月30日

「渡邊邸」修復作業が始まりました。



夏の雨でとうとう崩れた瓦の修復作業が始まりました。
瓦を支えている木が腐って瓦が落ちてそれがまた下の瓦に当たって崩れたのです。

私の代になって瓦の修復は気が重くて屋根を眺める度にため息でした。
でも門を入ってすぐに見える場所なので避けて通れません。




古い家には瓦が家のどこかに保管されています。
それを使って「渡邊」の雰囲気を壊さないように丁寧な作業が進んでいます。

大工さんも家のあちこちのメンテナンスをしてくれているのでこの秋は紅葉と新しくなる屋根の出来上がりが楽しみです。

  

Posted by ayami at 10:22Comments(0)

2010年10月05日

「渡邊邸 紅 神無月」




3日無事に「渡邊邸」伊藤大輔さんのJAZZ&舞踊絵師神田サオリさんの「神無月」が終わりました。

当日は心配していた通りに朝から雨。
PA担当のれんさんと二人で設営を急遽室内に変更。

「渡邊邸」の雰囲気を壊さないでゲストのお二人のコラボが生かせるようにセッティングしました。
PAもれんさんが床の間に傷が付かないように細心の注意を払って下さっていました。
その上、亡くなった父の肖像画をどこからも見える位置に置いて下さって本当にお気遣いに感動しました。

雨と風の音、鳥のさえずりが相乗効果になり伊藤大輔さんの歌声に神田サオリさんの筆が鮮やかに舞う様子は想像以上に素晴らしかったです。

お茶席は86歳の母が担当。
お茶の世界のよもやま話を皆様が熱心に聞いて下さっていました。

今回のお手伝いはちひろちゃんとまだ習って間もないあきさん。
二人とも今回の経験で随分と成長したように感じました。
お茶の精神でもある心くばりとおもてなしの心を体で感じ取った事でしょう。


まんじゃーれのイタリアンお弁当は皆さんが好きな場所で召しあがって頂きました。
「孤月庵」で数人の方が楽しそうに談笑しながらを拝見して嬉しくなりました。

今回は出演者もお客様もお着物姿が多くてこの企画の期待度の高さを感じました。

夕暮れから始まった2部は雨にぬれた飛び石や灯篭にろうそくが灯されてそれはまるで「夜話」(お茶会)を彷彿させるような演出になりました。リーンリーンと聞こえてくる虫の音が低く響くウッドベースにジョイントするように聞こえてきました。そして「渡邊邸」の裏を走るコトデン長尾線のカンカンと言う電車の音。普段の音までもが「紅 神無月」に共演していました。

2時~7時半までの長丁場でしたが、何度もアンコールに応えて下さった出演者の皆さん。

終わっても握手をしたり一緒に写真撮影をしたり「渡邊邸」を去るのが名残惜しそうでした。


今回の企画をした三木智子さん(地元JAZZシンガー)はきっとここ数日は胃が痛むほどに悩んだと思います。言ううのは簡単、でも実行する事はどんなに難しい事でしょう。でも彼女の強い想いと彼女をサポートする皆さんのハートが成功に繋がったと思います。私も心を動かされました。


私は根っからの怠け者だけれど連日の草抜きや掃除などをしながらご先祖に成功を祈った甲斐がありました。土曜日「ちひろ日」にボランティアで神社まわりの掃除をして下さったお客様にも感謝申し上げます。


「渡邊邸」での縁と宴が今後も繋がって行く事を願っています。


これから庭のもみじが紅葉して真っ赤になります。
どうぞまたゆるりと「渡邊邸」にお越しいただける事を心待ちにしております。





  

Posted by ayami at 18:24Comments(0)

2010年09月23日

源内記念館からのご一行様




今朝の雷と激しい雨は急に秋を運んで来たような気がしましたね。

「渡邊邸」に志度「平賀源内記念館」の関係者御一行様26名様がバスツアーのコースです。
香川町東谷の芝居小屋を見てから来られました。


皆様が熱心にお茶室を回ってくださってお座敷でお抹茶一服。

今日も門でお見送りをすると「なかなかない家なのでこれからも大事に保存してください」と言って頂きました。
ありがたいお言葉です。


お手伝いのお弟子さん二人には残ってみっちり補習お稽古。
まるで特訓・・・・。

母は本日も元気でした。


















白とピンクの萩の花の見ごろです。

「渡邊邸」を離れる時に見上げた夜空に綺麗なお月さまが雲の切れ目から見えました。

  

Posted by ayami at 21:41Comments(2)

2010年09月17日

「渡邊邸」イベントのお知らせ

涼しくなりましたね。

日差しが少し優しく感じます。
やっぱり秋が来てくれていたのだとホッとする日々です。
「渡邊邸」の雑草も夏前に学生さん達の草抜きのお陰で少なくて胸をなでおろしています。

門の近くの萩の花の蕾も膨らんでいます。


毎年この時期の「渡邊邸」はYUCCOと柳生忠平さんの展示会のイベントで始まります。
今年は瀬戸内国際芸術祭でご当地の小豆島で活動しています。



「渡邊邸」は10月3日に三木智子さんの企画で東京からJAZZシンガーの伊藤大輔さん
踊絵師の神田サオリさんをお迎えして「渡邊邸 紅 神無月祭」 開場13:00~終演20:00を開催。

ランチはご存じ「まんじゃーれ」のランチボックスとお抹茶&お菓子。


三木智子さんが春頃においでいただいてとても「渡邊邸」を気に入って下さってすぐに「こちらでライブをさせて下さい」のお話に嬉しくお受けいたしました。


若い皆さんのご厚意でこんな素晴らしい企画とまた始まる素晴らしい出会いにときめきます。

どうぞ足をお運びいただけますようお願い申し上げます。
お問い合わせとご予約は「まんじゃーれ」087-864-4025


  

Posted by ayami at 17:59Comments(0)

2010年09月06日

「渡邊邸物語」NO13

特異な環境の中に育ち普通でない暮らしと両親の生き方が私のコンプレックスでした。
もっと普通な暮らしはできないのだろうかと幼心に悩みました。

でも少々お勉強ができなくとも不思議と優秀な友達がいつもそばでいてくれて学校に行くのは楽しみでした。
主要教科以外の体育、音楽は得意で運動会、音楽会では活躍の場がありました。

齢を重ねても素晴らしい人脈に助けられているのは子供時代と変わらないのではと思います。


さて、「揚 家」とは何でしょう・・・・。


最近、来られるお客様も揚家に興味を持って来られる方もいらしゃいます。
ここに来ればあの「揚家」の茶室が見られるとの問い合わせもあります。


父が亡くなって頻繁にお蔵に入る事になった私は父の山の様な書籍の中から小雑誌を見つけました。
ずっと読む事もなく保管していたものをこれを機会に読んでみました。


「揚 氏の茶室」昭和31年11月18日


四国の大玄関、高松駅を高徳線を発車して五剣山を遠くに仰ぎ旅人は鬱蒼たる一段の森、その森を包囲する分厚い土塀、大長屋門、幾棟かの瓦葺きと藁葺の家構えが誰しもがアラッと驚くようである。


これが書き出しです。


この大邸宅は讃岐切っての豪家、代表民家として知られた揚 欣之助氏の屋敷。
また一般には長者と呼んでその昔、源平の際には源氏の弁慶が兵糧米を借りに来た家。

一帯が源軍焦土戦術で焼き払われたにもかかわらずこの揚邸だけは残ったのは、源氏に先ず味方したからだと言われている。





揚の屋敷は通称では単に「長者」と行って部屋の数は52あったが間取りは秘せられていた。
主人は御前様、その子女は若様、お姫様と呼ばれた。



あとがきには牟礼の里や屋島壇ノ浦に、源平のしのぎを削って以来、悲歌と哀愁に織りなした数々の軍記を彩る豪族名門の大民家の長者屋敷も時代の波の起伏にはそむけじして、ここに新しき主の手によって改装されようとしている。


現在はその3000坪の敷地もすっかりなくなり知る人も少なくなっています。





「渡邊邸」を語るには「揚家」を知らないといけないなって思ったらひょっこり出て来たこの資料はタイミングが良すぎる。


かなり高度な内容ですが、生きながらえた「揚家の茶室」を受け継ぐ身としては読まざるを得ません。

お勉強は嫌いなのですが…。


「揚家物語」NO1になりそうです。









  

Posted by ayami at 12:32Comments(0)渡邊邸物語

2010年09月05日

「渡邊邸物語」NO12

昨日は「渡邊邸」お茶カフェ&お稽古日でした。

通称「ちひろ日」。(彼女が取り仕切っているので)

9月に入って異例ではありますが、まだまだ暑いので「氷点前」をしました。

水指しの中でカラカラと氷の音が涼を呼びます。

水によく溶けるキメの細かいお抹茶です。
飲みやすくてどなたにも好評で珍しがられます。



今回はお茶室に興味のある方々がお集まりでしたので説明をさせていただきました。
実は私もこの家を3年前から再建しながら学んだ事ばかりです。

当初は母がお客様に話しているのを聞きかじりながら自分なりに父の思い出もお話できるようにしました。
きっとあの世で「お前がそんな事をしているのか・・・」と呆れているか喜んでいるか・・・微妙です。


昭和43年11月10日 「讃岐の茶室」 毎日新聞社 


当時、毎日新聞社から瀬戸内海放送報道局長になった十河信善さんが「まえがき」で香川と茶室の関わりを書いています。

茶が讃岐で話題になったのは
南北朝時代。

足利将軍義栓の執事、細川清氏が南朝に寝返って東讃三木郡白山に兵を挙げた。
直接の原因は将軍清氏の招宴をすっぽかして闘茶会に臨席したのを怒った為とされています。

利休以前から讃岐と茶の縁は深かった。
高松藩主松平家は武者小路千家初代一翁が茶頭として使えtもに茶道が盛んだった。


もう40年も前に出版されたこの「讃岐の茶室」に10ページにわたって「渡邊」の茶室が登場しています。

比べてみるとあったものが無くなっていたり庭の様子も変わっています。

父が丹念に作った茶室の息が聞こえてくるようです。



両親が愛でたこの茶室で華やかな茶事が何度も開催されました。


今はお茶の世界が嫌いだった私が何かに導かれるようにこの家と関わるようになったのも運命と言うしかありません。


またじっくり読んで勉強いしたいと思います。
そしておいでいただくお客様に「深い事を面白く」お話ができるようになりたいと思っております。  

Posted by ayami at 12:23Comments(0)渡邊邸物語

2010年08月29日

「渡邊邸物語」NO11

随分と退屈な子供時代を過ごしたなぁと今でも思います。

父が40代で初めての子供であった為に異常に可愛がられました。
本来はオテンバ娘で好奇心一杯なのに好きにできない窮屈さがいつも心のどこかでムズムズしていました。

「渡邊」で過ごす夏休みは何もありません。
訪ねてくる客様とお話をするだけで学校の友達は来れる距離ではないので一人で日が暮れるのを待ていた夏休みでした。


只、ご近所で一人だけ遊んでもいい友達がいて「渡邊」にいるといつも彼女と会うのが楽しみでした。私よりも一歳年下でしたがいつも私の帰りを待っていてくれて川の魚とりや秋の稲刈りの後の藁の中で遊んだりが最高に楽しかった。

でも中学になった時に彼女が不治の病で急死して私はこの友の死で深く落ち込みました。
細い道から小さな棺が私の前を通る時の悲しさや寂しさがこみ上げて父の横で泣きじゃくった事を今でも忘れられません。

今、生きていればきっと「渡邊邸」の力になってくれたはずです。



父は可愛がりの度が過ぎて時に私がいなくなったり思い通りにいかないときつく叱りました。
食べる時の態度、お客様へのご挨拶の他に門限には極端に厳しくて友達の家から帰る時間(大人になっても)に少しでも遅れたらひどい時はビンタが来ました。そして一番怖かったのは真っ暗なお蔵に入れられた事です。


白山の麓の池に行った事で父の心配の尾が完全に切れたのでしょう。一瞬の間に私が居なくなって村中が大騒ぎとなっていたからです。たまたま一緒だった村の子供達は親まで呼ばれて叱られたと後から知りました。

何も知らなかった私は事の大きさにびっくりしました。
悪気は全くなくて興味だけでした。

これがトラウマになってずっと大人になる・・・いえここ10年くらい前からやっと入れるようになりました。


今の私のチャレンジ精神やフットワークの良さは子供時代の反動です。
そして何よりも我が子達の子育ては自由!と彼らが決断した事によほどでない限り反対をしない!でした。












  

Posted by ayami at 18:43Comments(0)渡邊邸物語

2010年08月27日

「渡邊邸物語」NO10

夏休みもあと数日になりました。
私の子供時代の夏休みは8月1日から31日の一カ月。
いつから7月20日から始まるようになったのでしょう。

暑さも今みたいに毎日36度はなくてぜいぜい暑くて32度程度だったような気がします。
もちろんクーラーもなくて扇風機があるだけです。

家の人は夕方になれば家の周囲に水をまいて涼を取っていました。父親はステテコ姿で母はクレープの今で言うタンクトップワンピースみたいなのを着ていました。


私は両親と共に「渡邊」と番町にあった町宅を行ったり来たりしていました。
「渡邊」から市内の学校(四番丁小学校)にバスで通っていました。

あの頃は人口も多いのでバスも鈴なりで窓やドアから人が落ちるほどでその周囲を自転車通勤の人たちが取り囲むように走っていました。五番町の停留所で降りられずに兵庫町で降ろされたりバス通学は子供心に苦しい物でした。

町宅はまるで「渡邊」の台所よりも狭まくて逃げ場もないし寝るのも食べる時も同じ部屋でした。
でも遊び場は常に三越の屋上や丸亀町で町っ子として育った時間が長かったように思います。




父(順久)は二度結婚しています。
一度目は父の4歳上の姉(私からは伯母)の友人とでした。
県外人だった事と子供が生まれなかった事、嫁姑が原因だったようです。
二度目の母には私が生まれ祖父母に取って初めての内孫になりました。

「渡邊」は祖父が無学でも祖母は聡明で三本松の旧家から嫁入りしていました。
町長選挙も祖父に代わって決めごとに参加していたようです。しっかり者だったようです。
土地問題で騙されたりいろいろ悔しい想いをしたのは教育だと思った祖父母は3人の姉弟に東京での大学生活をさせています。学費の為に土地が減りつましい生活なったようです。

母と結婚する時に「おまえさん、この家は大きくともあまるお金はありませんぞ!」としっかり釘を刺されたそうです。


「渡邊」は信心な家で一年の行事は神仏中心で行われていました。言い伝えや先代からの習わしが全てでした。


(父の代になって揚家から神社を邸内に移築)



ご先祖の魂が「渡邊邸」を今もなお守っているような気がします。


父が亡くなった後、しばらくこの家も迷走しました。
家を貸してほしいとか茶室を移築したいと大きな会社の社長さんも見に来られました。話が進みかけると何故かどちらからともなくキャンセルになるのは先祖から「あなたが守りなさい!」と言っているのではと思います。・・・荷が重いけど・・・。




  

Posted by ayami at 09:58Comments(0)渡邊邸物語

2010年08月25日

「渡邊邸物語」NO9


8月第四週 氷点前


蒸し暑い日のお稽古日でした。

クーラーのないお茶室で皆さんもうっすら・・・ビッショリ汗が。

いつもお茶花を摘んでくれるお弟子さん。
美味しい湧水を運んでくれるお弟子さん。
お茶カフェへどうぞと声をかけてくれるお弟子さん。

皆さんの応援がないと私なんてすぐにギブアップしてしまいます。


買い物に行ったお店で同時に入った青年に「どうぞお先に」と声をかけると
「渡邊邸はどこかと」・・・・偶然ながらとてもびっくりしました。

こちらのお店にお客様が分りにくい渡邊への道を聞かれる事を初めて知りました。

「お茶は好きですが、作法がわからないので・・・」とおっしゃりながらもお茶体験をしていただきました。今日も素敵な出会いが待っていました。


父は琴平電鉄の初代社長大西寅之助さんと懇意にしていました。
渡邊の裏をコトデン長尾線が走っています。

私が小さい頃は最終電車だと父が車掌さんに「おい、ここで降ろしてくれ!」と言えば家の裏に小さな木の台があってそこで降ろしてくれていました。

しばらくその木の小さなプラットフォームが線路横にあったのを覚えています。
古き良き時代の事と思います。


  

Posted by ayami at 23:12Comments(0)渡邊邸物語

2010年08月15日

「渡邊邸物語」NO8

 お蔵の前にある「さるすべり」



ここ数年を駆け足で過ごして来たのでゆっくり木々の様子も見られずにいたら今年は「さるすべり」が咲き、萩が元気よく伸びてそろそろ花が咲きかけるでしょう。

「渡邊邸」の木はもみじが多くて新緑の頃は緑に、秋には紅葉が楽しめます。
昔は北庭に大きな松がありましたが、松くい虫にやられて根こそぎ処分しています。


2008年秋 はYUCCOの展示会を9月に終わらせ、11月には「まんじゃーれ」企画の「秋楽会」。
「雀巣庵」と「念魚の間」でまんじゃーれのランチボックスを食べながら音楽を楽しんでいただきました。

庭にスピーカーを置いて本格的なライブに。
キャパ一杯のお客様でした。


庭で演奏してそれを部屋から見るという設営です。



恥ずかしながらオーナー自らの演奏もしてまるで「渡邊邸」 こけら落とし・・・・。

壊れかけた家が再建してこんなにたくさんの方々においでいただいて感無量でした。

YUCCOの仕掛けた「渡邊邸」大作戦は「まんじゃーれ」夫妻の応援でまた新たな展開を見せました。
マスターが心をこめて創作したイタリアン ランチは美味しくて純和風な「渡邊邸」にマッチしていました。私が求めていたおしゃれな感覚そのもでした。スタッフのよりいいものを提供したいその気持ちが成功を生んだと思います。

他に多くの「渡邊邸」応援団のお陰だと心から感謝の気持ちでした。






父は肝臓がんで亡くなりました。
もう早くからお医者さんからは今年が最後だと言われながら長く生きる事ができました。
皮肉な事に父よりも若かった担当医師の方が先に亡くなる程に父のガンはゆっくりとしたものでした。
父も病状を把握していてそれまでに出来る範囲で旅立つ準備をしていました。

ある日、私に言い残したのは「どんな事があってもこの家をうどん屋だけにはせんとってくれ!」・・・でした。
(不特定多数のお客様では家の良さが分かってもらえないと言う意味もあっての事と思います)

敷居の高さは父の家へのプライドだったと思います。





http://blog.things-yucco.com/?eid=1279793   YUCCOのブログ
http://mangiare.ashita-sanuki.jp/          「まんじゃーれ」ブログ


  

Posted by ayami at 11:28Comments(0)渡邊邸物語

2010年08月13日

「渡邊邸物語」NO7

2008年9月


小豆島のデザイナーYUCCOと妖怪画家の柳生忠平氏の作品展が「渡邊邸」で二日間行われました。

お座敷「念魚」と「雀巣庵」にYUCCOの作品。
「櫛窓」と仏壇の部屋に柳生忠平氏の妖怪画。
「孤月庵」でお茶席。

「渡邊」が完全に生まれ変わった瞬間でした。
父の愛したお茶室は現代の若者の感性で塗り替えられそして再び輝き始めました。

発想の転換はこんな形でできるのだと彼らの設営を見ながら感じました。

柳生忠平氏は当日まで夜を徹して作品と向かい合っていました。
妖怪と茶室のコラボレーションは画期的な事です。
それにしてもあまりにもピッタリで妖怪もあの時は「渡邊邸」で乱舞していたのではと思ってしまいます。

YUCCOはトロピカルな色使いの革バッグとアクセサリーと和風な小物がメイン。
彼女は「念魚の間」には色気を感じると気に行って構想通りにデコレーション。
それは和と洋の融合が素晴らしく何の違和感もなく色と空間が上手く生かせていました。

連日、思いもかけない程のお客様が来られました。
YUCCOと柳生忠平氏のファンとこれまで「渡邊邸」に来れなかった人たちでした。

イベントは大成功に終わりましたが、多くの問題点が残りました。
まず、庭の徹底的な掃除と障子の張り替え、そして駐車場でした。




父「順久」42歳の時に生まれた私は父が目の中に入れても痛くない・・・・この表現が誰よりもピッタリだと世間では言われていました。どこに行くにも片時も私を離さず寝る時もを抱いて寝ていました。

常に一流の物を身につけてくれて自転車もランドセルも東京日本橋の三越で買ってくれました。
当時は羽振りの良かった父でした。

東京に行けば必ず銀座で買い物をしてお寿司を食べ「千疋屋」でデザートコースでした。
今でも銀座に路面電車が走り、東京タワーが建つ様子を思い出せます。
銀座に行くと父が私の手を引いて歩いたあの時が浮かんで来ます。

学校などあまり気にせず私はしょっちゅう学校を休まされていた・・・・訳です。



  

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2010年08月12日

「渡邊邸物語」NO6




昨日は水曜日のお稽古日。
留学生が夏休みでインターンシップに行っているのでお休み。

お弟子さん達だけでのお稽古でした。
世間話に花が咲いて横道にそれて・・・。

終わって仏壇の掃除やお墓参りを済ませました。
ご先祖さん達はどう思っているのかなぁ~。




2008年  夏~秋


7月~始まったお稽古も8月は暑いからとお休み。
9月に入ってお弟子さん達もモチベーションが高くて熱心なお稽古が続きました。
その中で見学にだけ来ていた友人がとうとう「私も弟子入りしたい」と言い始めました。
これならできると思ったのか興味を持ったのかは定かではありません。
このお弟子さんは皆勤賞で今や母の右腕として動いてくれています。
若いお弟子さん達からも「師匠!」なんて呼ばれています。


そんな中で掃除乙女隊にいたYUCCOの「一年後に展示会」は着々と計画が進んでいました。

実施は9月末の二日間。

我が家で展示イベントは初めてです。
YUCCOの想像性に任せて私は不安よりも新しく始まる何かにワクワクしていました。



父「順久」は2004年1月に95歳で亡くなりました。
渡邊は長寿の家系で父の姉(伯母)も90歳代で亡くなりました。

当時としては身体の大きかった父もすっかり齢と共に小さくなり大きな声もかすれていました。
若い頃からプレイボーイだったように亡くなるまで母とは違う女性が側にいて世話をやいてくれていました。

私は彼女とも会い話もした事が何度もありました。
複雑な環境の中でもし私が独身であれば分らない男女の関係であった事はまちがいありません。

最後までモテ男だった父でした。   (父の30代の肖像画)

それだけ母は苦労をさせられてその後ろ姿を見ながらの子供時代を過ごしました。
すべて思いのままに生きる、ほしい物は絶対に手に入れると言う執着心です。

芸術に関してもその通りでした。
言い出したら聞かない頑固で亭主関白でした。

父の前を母は決して歩かない事。
返事は「はい」だけで反論は許さない。
自分が法律・・・そんな人でした。

ただ、義理人情には厚く、して下さった事への感謝とお礼状は書でしたためてそれなりの物をまた送っていました。

我が子達が20歳になった時に父と家族で美味しいエビ料理を遠出して食べに行き帰りに際にそのお店の料理長とサービス係にチップとしてお金を包んで渡していたのを夫と息子が見て「かっこいいなぁーさすが、おじいちゃんや!」と言っていました。」
それだけに味にうるさく気に入らないと「まずい!」と平気で言っていました。

お蔵掃除から武者小路官休庵の若宗匠からのお礼状が見つかりました。
それには「渡邊さんに頂いたコーヒー代のおこずかいをありがたくいただきました」  
どんなに高額なコーヒー代だったのかと・・・。





「渡邊」での生活はしきたりの中で全てが行われていました。


  

Posted by ayami at 12:19Comments(0)渡邊邸物語